2013-03-12

あの日のこと



わたしはその日、夕方から夜遅くの勤務で、地震にあったのは職場の門を通って更衣室に向かう途中でした。
屋外にいて歩いていたので、始めは揺れていることに気が付かず、軽い眩暈かなくらいにしか思いませんでした。

でも、その揺れは収束するどころか段々強くなっていく。わたしがは渡り廊下の下を歩いていたのですが、それが柱ごと揺れてこれは崩れてきたら危ないと思い、走って近くの広い駐車場スペースに逃げました。
そこは職場の正面で、建物の全体を見渡せる場所。見上げると建物全体がまるで竹のようにしなっています。自分も足下も不安定で揺れ続ける中で思いました。これは命の危険があると。次々と建物から逃げてくる人たち。これは大事になったと本能がつぶやきましたが、これはまだ序章でした。

職場についてみると、安全確認をして、テレビで情報収集をしながらみんなが必死で通常業務をこなそうとしていました。そこで知りました、東北に甚大な被害が出ていることを、津波の凄まじさを。

わたしはまず夫が、家族が大丈夫かどうか心配でした。でも、周りを見渡すと携帯がつながっている人はおらず、きっと今は連絡ができないとiPhoneに触れる前に分かったので、連絡をしませんでした。テレビで流れてくる情報を総合して、きっと大丈夫だ、(夫は公の仕事なので)住民対応に頑張っているはずだと信じるようにしました。

その後、わたしの仕事自体はいつもと変わりなく淡々と終わり、帰宅時間に。
当然、交通機関が麻痺していることは知っていて、余震も続いていることも分かっていたので職場に泊まることを覚悟していました。みんな職場の大きなロビーで毛布にくるまって椅子やら床やらに雑魚寝でしたから。でも、かろうじて電車が動き始めたと聞き、いてもたってもいられず職場を後にしました。

電車はぎゅうぎゅうで、しかも途中の駅で止まってしまって、家には徒歩では帰るのが難しいほど遠いところで足止めをくらいました。しかし、そこは東京、何路線も走っています。わたしは一気に決断し、電車を乗り換えることに。都営大江戸線なのですが、ホームに到着してみるとわたしの乗りたい方は人が溢れていました。これでは乗れません。
そこで、逆方向にきた電車に乗ることにしました。逆方向でなぜか空いていたのは幸いでした。大江戸線は山手線ではないですが、都内をぐるっと一周しているので、逆に乗っても延々乗っていればいつかは目的の駅に辿り着きます。ラッキーなことに座ることもできて、途中で止まったり走ったりを繰り返して、ようやく家近くの駅についたのは3時くらい。
駅でも床に寝ている人たち、一緒に待機している人と話しながら朝を待つ沢山の人たち。普通ならこの時間に表に人が歩いていることは考えられないでしょうが、その日は徒歩で家に帰る人たちが列を作っていました。

家に帰ると、夫が寝ずに待っていてくれました。お家に帰れて良かったとこの日ほど思ったことはないでしょう。落ちて壊れた小物、動いていた家具…。
夫の方は東北にゆかりがあり真剣な表情でテレビを観ていました。

電話はつながらなかったけどツイッターだけが唯一機能していて、身を以て知ったSNSの強さ。いつ寝てるんだと思わずにはいられない昼夜問わず頻回な枝野さんの会見。原発が爆発した瞬間の映像に、エンパイアステートビルに飛行機が突っ込んでいったあの衝撃と同じものを感じたこと、そのライブ映像を傍観するしかなくて無力だと感じたこと。被災者支援に派遣される同僚と勤務を交代し自分は東京でできることを頑張ろうとしたこと。海外だったらスーパーを襲撃したり、暴動が起きたりする状況の中で、最低限のモラルを守れる日本人の特性を誇りに思ったこと…。

色んなことを忘れない。

追:ちょっと前から考えていたのですが、3月11日を思い返してみて、やっぱりツイッターを始めることにしました。いざという時のためも兼ねているので、あんまりつぶやかないかも知れませんが。

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